ロッテの千葉移転は本当に「不義理」だったのか――川崎球場改修との時系列を検証する

川崎球場と千葉マリンスタジアム 野球界構造分析

ロッテオリオンズが川崎球場から千葉マリンスタジアムへ移転した経緯について、しばしば次のような話が語られます。

「ロッテは川崎市に球場を大改修させた。それなのに、完成した直後、突然千葉へ移転した」

これだけを聞けば、たしかに印象はよくありません。川崎側にお金を使わせ、きれいになった球場をわずか1年で捨てた。そんな「不義理な移転」に見えます。

しかし、当時の出来事を順番に並べると、この物語には大事な部分が抜け落ちていることが分かります。

時系列の紐解きで見えてくる事実を一言で言うと、

ロッテは、川崎球場が大規模に改修された後で千葉移転を考え始めたわけではありません。
ロッテの千葉移転が具体的に表面化した後、川崎側が球場改修と新球場構想によって巻き返しを図ったのです。

この記事では、ロッテを擁護することや、川崎市の判断を責めることは目的にしていません。確認できた事実、そこから考えられること、事実として確認できないことを分けながら、「改修直後に逃げた」「後ろ足で砂をかけて出ていった」という説がどこまで妥当なのかを検証します。

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結論を先に――単純な「だまし討ち」説は成立しにくい

先に結論をまとめます。

ロッテの千葉移転構想は、1991年に完成した川崎球場の大規模改修より前に、すでに具体化していました。ロッテ史を継続的に整理しているウェブ資料では、1988年11月24日に松井静郎球団社長が「1991年シーズンからの千葉移転」に前向きな姿勢を示したとされています。この記述は、今回確認できた範囲ではあくまで二次資料に基づく情報ですが、それでも、遅くとも1988年には具体的な移転年を伴う話として表面化していた、という時系列は重要です。

その後、川崎側は川崎球場の全面人工芝化、スコアボードの電光化、座席やスタンド、バックヤードなどの改修を進め、新川崎地区の新球場・ドーム球場構想も打ち出しました。これは、週刊ベースボールの回顧記事でも、「川崎市が移転話を受けて大幅改修による引き留めを図った」と説明しています。

つまり、因果関係は次のように考えるのが自然です。

千葉移転が具体化する
→ 川崎側が改修と新球場構想で引き留めを図る
→ 1991年は改修後の川崎球場を使用する
→ 1992年に千葉へ移転する

少なくとも、「ロッテの長期残留を信じて川崎側が改修したところ、完成後に球団が突然移転を言い出した」という順序ではありません。

また、ロッテが川崎側に対し、「改修すれば長期間残る」「一定期間は移転しない」「新球場ができるまで川崎を使う」と明確に約束したことを示す資料は、現時点では確認できません。

もちろん、資料が見つからないことは、約束が存在しなかった証明にはなりません。ただ、少なくとも公に確認できる範囲では、川崎側は移転リスクを知らずに投資したのではなく、リスクが顕在化した後、残留を勝ち取る可能性に賭けて改修したと見る方が時系列に合います。

まず押さえたい時系列

主な出来事この検証での意味
1951~60年川崎球場のグラウンド、内野・外野スタンドなどが段階的に完成当初から段階整備型で、1970年代には基本設備の不足と劣化が顕在化
1977年4月阪神・佐野仙好選手が外野フェンスに激突し、頭蓋骨骨折ロッテ移転前の事故。後年のロッテの改修要求とは分ける必要
1977年大洋が横浜へ移転。ロッテの川崎使用が決定川崎側と固定本拠地を求めるロッテの利害が一致
1978年ロッテが川崎球場を本拠地としてシーズン開始照明、室内練習場、ロッカーなど一定の受け入れ整備
1983年ごろ福岡移転構想が表面化ロッテは早くから川崎以外も検討
1988年千葉新球場が起工。11月、球団社長が1991年移転に前向きとされる大規模改修より先に移転リスクが具体化
1990年3月千葉マリンスタジアム開業移転先の器が完成
1990年千葉側との条件調整が難航。球団社長が1991年移転断念、千葉移転を「白紙」と表現したとされる川崎長期残留の確約とは限らない
1991年川崎球場の全面人工芝化、電光化、座席等の改修が完成移転話が出た後の巻き返し策
1991年7月31日1992年からの千葉移転を正式表明改修後の移転決定
1992年千葉ロッテマリーンズとして始動移転後も川崎で公式戦を開催

この表の中央、1988年から1991年にかけての順序が、今回の核心です。

大洋移転後、なぜロッテは川崎へ来たのか

まずは、そもそもロッテがなぜ川崎球場を使用することになったのかを紐解きます。

川崎球場はどんなスタジアムだったか

wikipedia

川崎球場は、戦後間もない1950年代初頭に整備された球場です。川崎市の資料では1952年完成と整理されています。一方、球場史を扱う資料には、1951年にグラウンド、1952年に内野スタンド、1960年に外野スタンドが完成したという説明もあります。球場史を扱う二次資料では、建設時の予算は総額6000万円に抑えられ、米軍が使用していた鋼材や地元企業が持ち込んだ廃材も用いられたとされています。

つまり、現在の大規模球場のように、プロ野球本拠地として必要な機能を最初から一体的に整備した施設ではありませんでした。戦後の資材難と限られた予算のなかで造られ、必要に応じて設備を継ぎ足していく段階整備型の球場だったと見る方が実態に近いでしょう。

大洋ホエールズによる本拠地使用

1955年からは大洋ホエールズが本拠地として使用しました。しかし1970年代には、狭さに加え、プロ野球本拠地としての基本設備の不足や劣化が目立つようになります。開場から約20年で「老朽化」というと早すぎるようにも見えますが、問題は築年数だけではありません。段階的な増築と部分改修が重ねられ、施設全体を抜本的に更新する機会が乏しかったうえ、海に近い京浜工業地帯に立地し、高度成長期の大気汚染にもさらされました。後年の耐震検査をめぐる二次資料でも、建設時の躯体の弱さと大気汚染が、劣化を早めた可能性が指摘されています。

その設備不十分の象徴的な出来事が、1977年4月29日の事故です。

週刊野球太郎 (2017/7/2)

大洋対阪神戦で、阪神の左翼手・佐野仙好選手が飛球を捕った直後、ラバーのないコンクリート製の外野フェンスに激突し、頭蓋骨骨折の重傷を負いました。この事故をきっかけに、本拠地球場のフェンスへラバーを設置する動きや、重大な負傷時に審判がタイムを宣告できるようにするルール改正が進みました。川崎市の資料でも、1977年に外野フェンスへラバーを設置したと記録されています。

なお、ここで一旦注意が必要です。佐野選手の事故は、ロッテが川崎へ移る前、大洋時代の出来事です。 川崎球場がすでに安全面を含む課題を抱えていたことは示しますが、「ロッテ選手の事故が相次いだため、球団が大改修を求めた」という話ではありません。

その年、大洋は完成する横浜スタジアムへ本拠地を移すことになり、川崎球場は本拠球団を失います。

ジプシー球団となっていたロッテとの利害の一致

一方のロッテも、本拠地問題を抱えていました。1962年から使用していた東京スタジアムが1972年限りで閉鎖され、1973年からは保護地域を暫定的に宮城県へ移し、1974年には宮城球場を正式な本拠地としました。ただし、実際には仙台だけでなく首都圏の複数球場でも主催試合を行う、いわゆる「ジプシー球団」に近い状態でした。

週間ベースボール|県営宮城球場、ロッテとの“破局”【1950~92年】/プロ野球20世紀・不屈の物語

首都圏で固定本拠地を得たいロッテと、本拠球団を失いたくない川崎側。両者の利害は一致します。NPBのリーグ略史によれば、1977年10月4日の実行委員会でロッテの保護地域を神奈川県へ移すことが承認され、1978年から川崎球場が本拠地となりました。

ロッテが一方的に川崎へ押しかけたわけでも、川崎側が一方的に救済したわけでもありません。双方にとって現実的な選択だったと見るべきでしょう。

ロッテ誘致時、川崎側は何を整備したのか

ロッテ受け入れにあたり、川崎側が何もしなかったわけではありません。

川崎市の委員会資料は、1978年に夜間照明設備を改修したと記録しています。球場史をまとめた二次資料では、室内練習場の新設、ロッカールームの改修、外野フェンスのかさ上げなども挙げられています。前年の佐野選手の事故後にはフェンスへラバーも設置されました。

ただし、これらの改修が「正式なロッテの誘致条件だったのか」は分けて考える必要があります。

ロッテの要望を受けて照明や練習環境を整えたことは確認できます。一方、将来の全面改築や新球場建設について、川崎市と球場側が期限、規模、費用まで定めて正式に約束したことを示す協定書や議会資料は確認できません。

新球場の話自体は、のちに何度も浮上しますが、構想が語られていたことと、誘致時の契約条件として履行義務があったことは同じではありません。

したがって、ここから言えるのは、川崎側は一定の受け入れ整備を行った。しかし、全面改築や新球場建設が正式な誘致条件だったかは未確認、というところまでです。

川崎球場の基本設備不足・劣化とロッテの不満

Wikipedia

ロッテの受け入れ時には照明、室内練習場、ロッカーなどが整備されました。それでも、球場全体の機能不足が解消されたわけではありません。

元ロッテ監督・有藤通世氏の回想では、ロッカールームは雨漏りがあり、風通しも悪く、梅雨時や夏場には湿気がこもったとされています。ほかの回顧資料でも、更衣室、排水、観客席、スコアボード、バックヤードなど、プロ野球本拠地としての設備全般が時代遅れになっていたことが語られています。球場の狭さや観客動員の低迷も、球団経営上の悩みでした。

ロッテ側の改修要求は、選手の生命を守るための事故対策だけでなく、練習環境、試合運営、観戦環境、集客力を含む本拠地全体の近代化要求と捉える方が適切です。

一方で、川崎側が何も対応しなかったわけではありません。フェンス、照明、練習環境などは、その都度手を入れられてきました。ただし、対応は個別設備の部分改修が中心で、球団が求める本拠地全体の近代化には届きませんでした。少なくともロッテ側から見れば、要望を出しても不満の解消が遅々として進まない状態だったと考えられます。

結果、設備上の課題の多くは部分改修程度にとどまり、本質的な改善には至りませんでした。

この積み残しがあったからこそ、千葉移転が具体化した後に川崎側が打ち出した全面人工芝化や電光スコアボード、新球場構想は、従来の部分改修とは異なる「巻き返し策」として映り、遅きに失したように見える一因であると言えるでしょう

ロッテは川崎時代から移転を模索していた

実は、ロッテの移転先探しは、千葉の話が出るまで始まらなかったわけではありません。

1983年に稲尾和久氏が監督へ就任した背景には、福岡移転構想があったとされています。稲尾氏自身が、九州移転の用意があることを前提に要請を受けたと後に語っています。しかし構想は進まず、稲尾氏は1986年に退任しました。

この経緯から分かるのは、ロッテが1980年代前半時点で、川崎を永久の本拠地と決めていたわけではないことです。基本設備の不足と劣化、新球場構想の停滞、観客動員の伸び悩みのなかで、球団は他都市への移転可能性を早くから探っていました。

これはロッテだけの事情でもありません。プロ野球球団を迎えたい都市と、より良い条件や市場を求める球団が接触すること自体は、当時も現在も起こり得ます。重要なのは、移転を検討したこと自体ではなく、川崎側との間でどのような約束が交わされていたかです。

千葉移転構想が先、川崎側の巻き返しが後の時系列

千葉では、幕張新都心の整備とともに新球場建設が進み、1988年1月に起工しました。同年6月には「千葉にプロ野球を誘致する県民会議」が結成され、署名活動も始まったとされています。

そして、前述した二次資料によれば、1988年11月24日、ロッテの松井静郎球団社長は1991年シーズンからの千葉移転に前向きな姿勢を示しました。

ここで、川崎球場の大改修との順序を確認します。

川崎球場が全面人工芝となり、スコアボードが電光化され、座席やスタンドなども更新されたのは1991年です。週刊ベースボールの球場史も「1991年、全面人工芝に改装」と整理しています。

1988年の移転意向の表面化が先で、1991年の改修完了が後です。

この前後関係は、単なる数年の違いではありません。「誰が何を見て判断したのか」という因果関係を示しています。

この時系列から考えると、「川崎側は、移転の可能性を知らず、ロッテの長期残留を当然の前提にして改修へ踏み切った」とは考えにくくなります。むしろ、千葉に新球場ができ、ロッテが具体的な移転年にまで言及するなかで、現球場の刷新と新球場構想を示し、引き留めを図ったと見る方が自然です。週刊ベースボールの記事も、川崎市が移転話に対して大幅改修で引き留めにかかった、と明記しています。

川崎市が新川崎駅周辺、新鶴見操車場跡地の再開発にドーム型運動施設を盛り込んだとする資料もあります。ただし、千葉では実物の球場が建設中だったのに対し、川崎の新球場は構想段階でした。ロッテから見れば、完成した新球場と、将来実現するか分からない計画との比較という、明らかに段階の違う比較でありました。

1991年の大規模改修は何のためだったのか

Wikipedia

1991年に新装された川崎球場では、全面人工芝化、スコアボードの電光化、座席の取り換え、防球ネットのかさ上げ、スタンド壁面の再塗装、ベンチやロッカーなどの改修が行われたとされています。

改修費については「約2億円」とする二次資料がある一方、資料によって異なる数字も流通しています。工事年度が複数にまたがるのか、人工芝や電光掲示板だけを数えるのか、座席や周辺設備まで含めるのか、また費用負担の主体をどこまで含めるのかが明確でないため、ここでは単一の総額を確定値として扱いません。

改修の目的も一つだったとは限りません。

老朽設備の更新、プロ野球本拠地としての機能改善、観客環境の向上、野球以外も含む施設価値の維持、そしてロッテの引き留め。複数の目的が重なった事業だった可能性があります。

ただし、時系列と当時の報道を踏まえると、ロッテ引き留めが重要な目的の一つだったことは否定しにくいでしょう。

ここから得られる示唆は、川崎市が「だまされた」というより、移転リスクを認識したうえで、改修によって状況を逆転できる可能性に賭けたということです。

政策判断として、リスクを承知した引き留め投資と、残留確約を信じた先行投資は、同じではありません。

また、それが成功確率の高い投資だったかは別の論点です。

91年の「千葉移転延期・白紙」は、川崎残留の表明だったのか

千葉マリンスタジアムは1990年3月に開業しました。ところが、ロッテは当初取り沙汰された1991年からの移転を実行しませんでした。

背景として挙げられているのが、千葉県、千葉市、球団間の利用条件をめぐる調整です。球場は千葉県立の幕張海浜公園内にあり、千葉市が県から敷地を借りて建設した施設でした。プロ球団の本拠地利用をどこまで認めるか、公共施設としての扱いとどう整合させるかなどについて県と市との調整が難航したとされています。

松井球団社長は「1991年からの移転」を断念し、千葉移転をいったん「白紙」と表現したとされます。

しかし、千葉移転の白紙化と、川崎への残留意思表明は別の話です。

「現段階では千葉へ移れない」という判断は、「今後も川崎から移転しない」という約束を意味しません。1991年にロッテが改修後の川崎球場を使用したことは事実ですが、それは長期残留の合意であるとは言えません。

一部の回顧資料には、移転を1年遅らせた背景に「全面改修した川崎市への恩義」があったのではないか、という見方もありますが、その資料の執筆者自身がの個人的見解だとしています。

もちろん、川崎への配慮がまったくなかったと断定できません。しかし、確認できる事情から見れば、延期の直接的な主因は千葉側との条件調整の難航と考えるのが妥当です。「川崎との残留の約束があった」と断定するのは難しいでしょう。

改修後1年で移転したのは不義理なのか

1991年7月31日、重光昭夫球団社長代行は、1992年から千葉へ本拠地を移す方針を正式に表明しました。9月にはプロ野球実行委員会で移転が正式決定され、翌年から千葉ロッテマリーンズとしてスタートします。

Wikipedia

結果として、改修した川崎球場が本拠地として使われたのは、実質的に1991年の1シーズンでした。川崎側の落胆は容易に想像できます。投資の直後に中心的利用者を失ったのですから、感情的に「不義理だ」という受け取りも理解できます。

ただし、道義的評価を事実認定へ進めるには、少なくとも次の点が必要です。

  • ロッテが改修を求める際、長期残留を約束していたのか
  • 川崎側がその約束を信頼して投資を決めたのか
  • ロッテがその時点ですでに移転を内定しながら、意図的に隠していたのか

今回の調査では、これらを裏づける協定書、覚書、公式発言などは確認できませんでした。

反対に確認できるのは、川崎球場の大改修より前から、千葉移転が具体的な選択肢として公に語られていたことです。川崎側も、新球場構想まで打ち出して巻き返しを図っています。これは、移転リスクを認識していたことを強く示します。

したがって、「川崎側に長期残留を匂わせ、改修だけさせて逃げた」という強い意味での不義理説は、現時点の資料からは成立しにくいと言えます。

もっとも、ロッテの振る舞いが常に誠実だった、とまで証明されたわけでもありません。川崎側との非公開交渉で何が語られたのか、改修の意思決定時にどの程度の期待を持たせたのかは、まだ分からない部分があります。

ここでの結論は「ロッテに問題はなかった」ではなく、一般に流通している後ろ足で砂をかけて出ていったというようなだまし討ち型の物語は、確認できる時系列と証拠に合わないということです。

移転後の川崎側とロッテの対応は?

移転発表後、川崎側が球場収入の補償を求め、ロッテ側が反発したという説明は複数の二次資料に見られます。移転後も川崎球場で年間10試合程度を行う案があったものの、対立によって試合数が減った、という説明もあります。

しかし今回の調査では、要求内容や協議事実、法的根拠などを明確に示す一次資料までは確認できませんでした。このため、本文では「補償要求があったとされる」と所説レベルにとどめます。

また、ロッテに対して損害賠償、改修費返還、移転差し止めなどを求める訴訟が提起された事実も確認できません。川崎市長、市議会、球場運営側が、ロッテを欺瞞的だと強く非難した公式声明も見つかりません。

これらは、対立や不満がなかった証明ではありません。ただ、少なくとも「川崎市が改修費をだまし取られ、法廷闘争になった」というほど明確な契約違反が表面化した形跡は、確認できないということです。

なお、ロッテは千葉移転後も川崎球場で公式戦を行っています。NPBによれば、川崎球場での一軍公式戦最終開催は1992年7月4日のロッテ対近鉄戦でした。川崎市市民ミュージアムの年表も、1992年に川崎球場で最後の一軍公式戦が行われたと記録しています。

結論――「ロッテが改修だけさせて逃げた」は時系列上説明できない

川崎球場の改修からわずか1年でロッテが千葉へ移った。この一点だけを切り取れば、「不義理な移転」という印象は生まれます。

しかし、出来事を順番に戻すと見え方は変わります。

ロッテは川崎時代の早い段階から他都市への移転を検討していました。1988年には千葉移転が具体的な時期を伴う選択肢として表面化します。その後、川崎側は現球場の大幅改修と新球場構想で引き留めを図りました。1990年には千葉側との調整難航から1991年移転がいったん見送られ、ロッテは改修後の川崎球場を1シーズン使用したのち、1992年に移転しました。

つまり、先に移転構想があり、その危機に対する巻き返しとして改修があった。

この順序を踏まえると、1991年の改修は、残留が保証された安全な投資ではなく、川崎側が自らリスクを取り、球団残留の可能性に賭けた政策的・経営的な投資だった可能性が高いと考えられます。

もちろん、明確な残留確約がなかったと断定することもできません。今回見つからなかっただけで、非公開の文書や交渉記録が残っている可能性はあります。川崎側が抱いた期待や失望も理解できます。

それでも、現時点で確認できる資料からは、「ロッテが長期残留を約束して川崎側に改修させ、完成後に突然翻意した」という単純な不義理説は時系列上成立しにくいこれが最も妥当な結論です。

この移転史が示すのは、球団と自治体のどちらが善でどちらが悪か、という話ではありません。移転リスクがある公共施設へ投資するとき、残留条件はどこまで合意されていたのか。そのリスクを誰が負い、どのような成果を見込んだのか。後から道義だけを語る前に、当時の意思決定をそこまで遡って見る必要がある、ということです。

出典・参考資料

  1. 川崎市「川崎球場遺構保存に関する請願」まちづくり委員会資料(2020年2月6日) — 球場完成、1977年のラバー設置、1978年の照明改修、1991年の移転発表などの公式年表。
  2. 川崎市市民ミュージアム「Cheer! Cheer! Hurray! 川崎のスポーツ史展」関連年表 — ロッテの川崎使用決定、1991年の本拠地最終戦、1992年の一軍公式戦など。
  3. 日本野球機構「パシフィック・リーグ略史」 — 1977年10月4日の保護地域変更承認。
  4. 日本野球機構「セントラル・リーグ略史」 — 1977年4月29日の佐野仙好選手の事故。
  5. 日本野球機構「川崎|球場詳細」 — 川崎球場の公式戦最終開催日。
  6. 日本野球機構「千葉県 ZOZOマリンスタジアム」 — 千葉マリンスタジアムの完成、ロッテの移転。
  7. 千葉ロッテマリーンズ「チームヒストリー 1990年~1994年」 — 1991年7月31日の移転表明、川崎最終戦、球団名変更。
  8. 千葉ロッテマリーンズ「球団70年史」 — 東京スタジアム、川崎移転、千葉移転を含む球団史。
  9. 週刊ベースボールONLINE「千葉ロッテマリーンズ・本拠地球場ヒストリー」 — 仙台時代、川崎球場の1991年改修など。
  10. 週刊ベースボールONLINE「ロッテが千葉移転正式表明、名前は千葉ロッテ・オリオンズに?」 — 川崎側の引き留め、1991年7月31日の会見。
  11. オリオンズ&マリーンズ(裏)歴史博物館「千葉移転前夜」 — 1980年代の移転構想、1988年の球団社長発言、千葉側との条件調整、「白紙」発言、川崎側の改修。二次資料として参照。
  12. 日刊スポーツ「佐野仙好の頭蓋骨骨折」 — 1977年の事故、フェンスの状態、安全対策とルール改正。
  13. 週刊ベースボールONLINE「わが思い出の川崎球場 有藤通世」 — ロッカールームの湿気など、当時の設備についての回想。
  14. 戦国ヒストリー「川崎球場 古くて汚いとディスられながら、数々の名シーンを生んだ伝説の球場」 — 戦後の限られた予算・資材、段階的な増築、施設の狭さについての二次資料。
  15. Wikipedia「川崎球場」 — 建設予算、転用資材、大気汚染による劣化促進についての記述を参照。
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